教員として働き続けた私が病気休暇を取るまで
20年以上、学校の先生として働いてきました。病気休暇を取る先生たちのことを、どこかで「ずるいなぁ」とか「できない先生なのかな」と冷めた目で見ていた自分がいました。だからこそ、自分が病休を取るなんて考えもしなかったし、定年までやりきるつもりでいました。
しかし、そんな私が病気休暇を取り、半年後に退職を決意することになりました。今だからこそ、当時のことを振り返りながら書いてみたいと思います。
もう無理かも…心と体が限界を迎えた朝
それは日曜日の朝のことでした。前日の土曜日も21時ごろまでパソコンや資料と向き合い、仕事をしていました。日曜日も早朝から「月曜日に間に合うように」と起きたものの、ひどい頭痛と吐き気が襲いました。
「やらなきゃ…でも、しんどい。」
ロキソニンを飲もうとしたそのとき、涙があふれてきました。
「負けてたまるか。私は一生懸命やってきた。これからも、できる先生としてやっていきたい。間に合わせなきゃ…。」
必死に自分を奮い立たせましたが、頭痛も吐き気も止まりませんでした。
「もう、私の教員人生は終わった。」
たったこれだけのことでそう思ってしまうほど、心が追い詰められていました。
翌日、心も体もしんどかった私は年休を取って病院へ行きました。
「この頭痛と吐き気が何か大きな病気だったら良いのに…」と願いながら。
MRIの結果は異常なし。
医師に「しばらく休めますか?」と聞かれましたが、
「休めない」と答えた私に、2週間の診断書を出してくださいました。このときの先生が診断書をだしてくださったことが、どれだけありがたかったか。
初めての病休。プライドはズタズタでしたが、それよりも「これで休める」とほっとしたのを覚えています。
初めての病休、押し寄せる不安
2週間の病休が決まった途端、不思議な解放感がありました。
でも同時に、
「2週間後、どうしよう」
「こんな身勝手なことをして戻れるのか」と不安の波も押し寄せてきました。
「どうしてこんなにしんどくなったんだろう…。」
考えた末に思い当たったのは、職場での人間関係でした。
一緒に働いていた少し年上の女性の先生に、私は全否定され続けていました。以前ならうまく受け流せていたのに、中間管理職の立場になったことで、その人の存在が絶対的なものに感じられるようになっていました。
一度、「できません」と言ったとき、ひどく怒られたことがありました。それ以来、どんなに無理をしてでも「ノー」と言えなくなっていました。
顔色をうかがい、気を使い続け、睡眠不足の日々。昼間でも目をつぶれば寝てしまいそうなほど眠かった。困っても迷っても、相談する相手がいなかった。
そんな生活の中で、いつしか涙が止まらなくなっていました。
適応障害と診断され、1カ月の休養へ
不眠が続き、ついに心療内科を受診しました。
家から遠く、人目につかない場所にある「働く女性をサポート」と書かれたクリニックを選びました。
初めての心療内科。意外と普通の人が待合室に座っていて、医師との会話も淡々としていました。
先生は学校の先生の休職に慣れているのか、すぐに1カ月の診断書を書いてくれました。
診断名は「適応障害」。
薬もなく、特別なアドバイスもなく、ただ診断書を受け取って帰りました。
「これで1カ月休める…。」
ほっとした反面、どこか迷子になったような気持ちになりました。
病休中の過ごし方
休職中は、朝6時に起きてお弁当を作り、子どもたちを見送る。その後、調子が良ければ朝の散歩に行き、掃除や書類整理をする。
けれど、人と会うのが怖くて買い物にも行けませんでした。病休を取っていることが知られるのが怖くて、罪悪感でいっぱいで、誰とも会いたくなかった。
夜9時には寝るのに、昼間も1〜2時間ほど寝てしまう。横になると、すぐに眠くなっていました。
そんな風に、病休1カ月目は静かに過ぎていきました。
今、思うこと
あのときは「もう終わりだ」と思っていたけれど、今になって振り返ると、「休んでよかった」と思います。
もし、あのとき、休んでなかったら、走り続けてしまっていたら、どうなっていただろうと思います。
休むことは、決して悪いことじゃない。冷静さを失ってしまってたけど、先生の前に、「自分」、「私」なのです。
無理をし続けることの方が、よほど危険だったのだと、今ならわかります。
今もし、あのときの私と同じように「もう無理かも…」と思っている先生がいたら、どうか無理をしないでください。
あなたがダメなわけじゃない。
一度、しっかり休んでください。
そしてまた、ゆっくりと、自分のペースで歩き出せますように。